「北欧のショパン」とも呼ばれたシベリウスですが、彼のピアノ曲の中で、この「樅の木」ほど日本人の琴線に触れる曲はありません。 降り積もる雪、厳しい寒さに耐えて直立する針葉樹、そして圧倒的な静寂。派手な技巧を一切使わず、たった数ページの楽譜の中に、フィンランドの雄大な自然と、そこに生きる人間の孤独な魂が見事に描かれています。
作品の背景
この曲が生まれた背景には、シベリウスの生活環境と、ある日本人ピアニストの存在が欠かせません。
- 森の家「アイノラ」での日々 1914年、シベリウス49歳の作品です。彼は都会の喧騒を離れ、ヤルヴェンパーという森の中に「アイノラ(アイノの家)」という山荘を建てて暮らしていました。彼は毎日森を散策し、木々のざわめきや香りを肌で感じていました。この曲は、彼が愛した身近な自然への「音によるスケッチ」です。
- 日本での普及の立役者 日本では、フィンランド在住のピアニスト舘野泉(たての いずみ)氏が、コンサートのアンコールなどでこの曲を大切に弾き続けたことで広く知られるようになりました。今では、ピアノ発表会やコンクールの定番曲として定着しています。
楽曲の構造と音楽的な特徴
曲はゆっくりとしたLento(レント)で奏でられ、余計な音を削ぎ落としたシンプルな美しさを持っています。
- 冒頭:雪の重みと上昇するアルペジオ
- 調性: ニ短調(D minor)を中心としますが、調性は揺らぎます。
- ゆっくりと、下から上へと昇っていくアルペジオ(分散和音)で始まります。これは、樅の木の枝に重い雪が積もり、その重みで枝がしなる様子を表しているとも、天に向かって真っ直ぐに伸びる木の姿を表しているとも言われます。
- 音が鳴った後の「余韻」や「間」が非常に重要で、静寂そのものが音楽の一部になっています。
- 中間部:吹き抜ける風
- 指示: Risoluto(決然と)
- 雰囲気が変わり、テンポが少し動きます。右手が細かい音型を刻み、低音が唸るこの部分は、森を吹き抜ける冷たい風や、嵐の予感を思わせます。
- しかし、感情が爆発することはなく、あくまで内側に秘めた情熱(フィンランド語で「シス(Sisu)」と呼ばれる不屈の精神)を感じさせます。
- 終結部:深い眠り
- 再び冒頭の静けさが戻ります。最後は、雪に覆われた森が深い眠りにつくように、あるいは霧の中に消えていくように、静かに曲を閉じます。
技術的難易度
楽譜上の音符は少なく、中級レベル(ソナチネ程度)から演奏可能です。しかし、プロが弾いても難しいとされる「表現の難曲」です。
- 「音色」を作るタッチ この曲に必要なのは、明るく軽い音ではなく、**「深く、暗く、重い音」**です。鍵盤の底まで指を沈め、ピアノという楽器を豊かに鳴らすタッチが求められます。
- ペダリングの妙 音が少ない分、ペダルの踏み替えのタイミングが露骨に響きに影響します。濁らせず、かつ響きを途切れさせない、高度な耳と足の技術が必要です。
- テンポ・ルバートの解釈 楽譜には書かれていない「揺らぎ(ルバート)」をどう入れるかが奏者のセンスに委ねられています。やりすぎると演歌のようになり、やらなすぎると無機質になる。北欧の厳しい自然を感じさせる「厳格さ」と「ロマン」のバランスが難しいところです。
この曲が愛される理由
- 映像を喚起する描写力 目を閉じて聴くと、誰の目にも「雪景色」や「深い緑の森」が浮かんでくるほど、情景描写に優れています。
- 孤独への共感 この曲には、華やかな社交界の音楽にはない「孤独」があります。しかしそれは寂しいだけでなく、「独りで立つことの尊さ」を感じさせるため、疲れた現代人の心に深く寄り添います。
- 「わび・さび」の世界 最小限の音で最大限の世界を描く手法は、日本の俳句や水墨画にも通じるものがあり、日本人の美意識と非常に親和性が高いです。
まとめ
シベリウスの『樅の木』は、一冊の詩集のようなピアノ曲です。
華麗なテクニックで圧倒するのではなく、たった一つの音、たった一つの和音で、聴く人の心の奥底にある記憶や風景を呼び覚ます。ピアノという楽器が持つ「静寂の美しさ」を教えてくれる名作です。
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