この曲を聴いた瞬間、多くの人が耳を疑います。「あれ? 今弾いているのはピアノ? それともお琴?」 日本の伝統楽器である「琴(筝)」の響きや奏法を、ピアノという西洋の楽器で見事に翻訳した傑作です。その鋭く、そして研ぎ澄まされた「和」の美しさは、日本国内のみならず、海外の聴衆をも圧倒する力を持っています。
作品の背景
この曲は、日本の西洋音楽界の黎明期から発展期を支えた巨匠によって書かれました。
- 作曲者:平井康三郎について 平井康三郎は、「平城山(ならやま)」や「ゆりかご」などの名歌曲や合唱曲で知られる、昭和を代表する作曲家です。彼は西洋音楽の理論を完璧にマスターした上で、「日本の魂」を音楽に込めることに生涯を捧げました。
- 「琴」へのオマージュ 平井は、ピアノを単なる「メロディを奏でる楽器」としてではなく、「日本の伝統的な響きを再現する装置」として扱いました。 この曲は、彼が作曲した『日本民謡による4つのピアノ曲』の中の1曲として書かれましたが、その完成度の高さから単独で演奏される機会が非常に多い作品です。
楽曲の構造と音楽的な特徴
平田版が「流れるような美しさ」なら、平井版は「弾けるような鋭さ」が特徴です。
- 冒頭:琴の爪弾き
- 調性: ロ短調(B minor)のような、日本的な陰旋法(都節音階)。
- 鋭い**前打音(装飾音)**を伴った和音が「チャン!」と鳴り響きます。これは、琴の弦を爪で弾く瞬間の鋭いアタック音を模倣したものです。
- ペダルを使っても、響きが濁らないように計算されており、日本の「間(ま)」を意識した静寂な空間が広がります。
- 主題と変奏:凛とした歌
- 低音域で「さくらさくら」のメロディが厳かに提示されます。
- その後、変奏(バリエーション)が進むにつれて、音域が広がり、テンポも速くなっていきますが、甘ったるいロマンティックな表現にはならず、常に「硬派で、高貴な響き」を保ち続けます。
- クライマックス:散りゆく激しさ
- 曲の後半では、琴の「掻き手(かきて=弦を激しくかき鳴らす奏法)」を模した、激しいトレモロやグリッサンドが登場します。
- 最後は、桜が嵐のように舞い散る様子を描写し、ピアノの最低音を使った重厚な和音で、堂々と曲を閉じます。
技術的難易度
平田版と同様に中級〜上級レベルですが、求められる技術の種類が全く異なります。
- 「ノン・レガート」の美学 西洋音楽(ショパンなど)では「音と音を滑らかに繋ぐ(レガート)」ことが良しとされますが、この曲では逆に、「音を粒立たせて、鋭く切る」タッチが求められます。指先を硬くし、琴爪で弾いているようなイメージを持たないと、ただの「重たい曲」になってしまいます。
- 装飾音の鋭さ 全編にわたって登場する装飾音(前打音)を、主音とほぼ同時に、かつ鋭くぶつける技術が必要です。これが甘くなると、琴らしくは聴こえません。
- 「間(ま)」の感覚 楽譜上の休符を単なる「休み」として数えるのではなく、緊張感を持った「無音の時間」として表現する、日本的なリズム感が不可欠です。
この曲が愛される理由
- 圧倒的な「和」のリアリティ 目を閉じて聴くと、本当に琴の演奏を聴いているかのような錯覚に陥るほど、再現度が高いです。
- 海外でのウケが抜群 「これぞ日本の音楽!」という個性が明確なため、日本人ピアニストが海外留学やコンクールで演奏すると、非常に喜ばれ、高く評価されます。
- 硬派なカッコよさ 甘さを排したストイックな曲調は、まるで日本刀のような切れ味があり、弾き手にも聴き手にも心地よい緊張感を与えてくれます。
まとめ
平井康三郎の『幻想曲さくらさくら』は、ピアノという西洋の楽器を使って、日本の美意識の極致を描き出した傑作です。
「華麗でロマンティックな平田版」と、「高潔で日本画のような平井版」。同じ「さくら」をテーマにしていながら、全く異なる世界を見せてくれるこの二曲は、まさに日本のピアノ音楽の双璧と言えるでしょう。

