「別れの曲」や「革命」といった著名なタイトルの陰に隠れがちですが、作品10第9番は、ショパンらしい憂愁と、嵐の前の静けさのような不穏な空気が漂う隠れた名作です。 華やかなヴィルトゥオージティ(技巧)をひけらかす曲ではありませんが、聴く人の心に深く沈み込むような、劇的で情熱的な表現力を持っています。
作品の背景
この曲は他の作品10と同じく、1829年から1832年の間に作曲され、フランツ・リストに献呈されました。
- 配置の妙 この第9番は、同じヘ短調やハ短調といった暗い調性が続く作品10の後半に位置しています。特に、後に続く第12番「革命」の激動の世界観を予感させるような、「抑制された情熱」が特徴です。
- 性格的な位置づけ ショパンのノクターン(夜想曲)のような歌心を持ちつつも、より劇的で焦燥感のあるキャラクターを持っています。華やかさよりも内面的な感情の吐露に重きが置かれています。
楽曲の構造と音楽的な特徴
テンポ指定はAllegro, molto agitato(快速に、非常に激して)となっており、焦りや不安を感じさせる曲想です。
1. 左手の広大な分散和音
この曲の最大の特徴は、左手の伴奏形にあります。非常に広い音域を行き来する分散和音(アルペジオ)が、終始うねるように続きます。これは単なる伴奏ではなく、曲全体の「不穏な空気感」や「鼓動」を作り出す土台となっています。
2. 右手の鋭い旋律
右手は、スタッカート交じりの鋭いリズムと、長く伸びる歌うようなフレーズが交互に現れます。
- 「ため息」のモチーフ: 短いスラーで区切られた音型が、息を切らしているような、あるいはため息をついているような印象を与えます。
- ダイナミクスの対比: 冒頭などの「p(ピアノ)」の部分と、感情が高まる「ff(フォルティッシモ)」の部分の落差が激しく、精神的な不安定さを表現しています。
3. クライマックスから終結へ
中間部で一度感情が爆発した後、再現部を経て、最後は静かに消え入るように終わります。解決しきらない余韻を残すエンディングが、この曲の神秘性を高めています。
技術的難易度
派手さはありませんが、演奏者にとっては「左手の柔軟性」が極めて強く求められる難曲です。
- 左手の拡張(ストレッチ) 左手の伴奏は1オクターブ以上の広い音程を頻繁に跳躍します。手が小さい奏者にとっては非常に負担が大きく、手首を柔らかく回転させて音をつなぐ技術が必須です。これを力任せに弾くと、すぐに腕が痛くなってしまいます。
- 歌と伴奏のバランス 左手が激しく動くため、どうしても左手の音がうるさくなりがちです。左手のうねりをコントロールしつつ、右手のメロディを浮き立たせるバランス感覚が問われます。
- アジタート(Agitato)の表現 「激して」という指示通りに、テンポを揺らしながら感情を表現するルバートのセンスが必要です。ただ速いだけでなく、心理的な「焦り」を音にする表現力が求められます。
この曲が愛される理由
- 「陰」の魅力 ショパンの作品が持つ「明るく華やか」な側面ではなく、心の奥底にある不安や焦燥といった「陰」の感情に寄り添う曲調が、多くのファンの共感を呼びます。
- ドラマチックな高揚感 静かに始まりながらも、徐々に熱を帯びていく展開は、短いドラマを見ているような没入感があります。
- 演奏効果の高さ(玄人好み) 派手なパッセージがない分、演奏者の「音色」や「表現の深さ」が如実に現れるため、コンクールやリサイタルで実力を示すために選ばれることも多い曲です。
まとめ
ショパン エチュード 作品10-9は、「左手の広がり」と「内面的な焦燥感」が見事に融合した作品です。
派手な「革命」や美しい「別れの曲」の影に隠れがちですが、この曲にはショパンの繊細で傷つきやすい魂が、そのまま音になったような生々しさがあります。左手の低い音が作り出す暗い波と、その上で彷徨う右手の旋律に注目して聴くと、その深い魅力に気づくことができるでしょう。
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